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神 仏
神仏習合の秘教的世界。

日光には開山勝道上人以来、一千二百年にわたり連綿としてその信仰が伝えられてきたのです。そして、その広大な地域に多くの神仏が祀られ、人々に利益を垂れてきています。ここでは日光に祀られる神仏についてその一端をご紹介しましょう。

金剛童子
金剛童子
金剛童子は、日光において峰中本尊とされます。一般に八大金剛童子という時は、八人の童子ですが、日光においては、身体が黄色で二臂(手が二本)の単独尊が拝まれます。(黄童子)
金剛童子は蔵王権現と同体とされ、国土を守り魔障や災いを降伏し、修行者を護り、諸願を叶えて下さいます。
その形相は左足を上げ、右手を下げ、左手は上げて三鈷杵を持つ姿や、足を上げず、右手に金剛杖を持ち、左手に三鈷杵を持つ姿などがあります。これは、阿弥陀仏の変化身とされます。また青色で六臂(手が六本)の姿は青童子と呼ばれ、金剛薩埵の変化身とされます。
この童子の修行をすることにより、現身に持明悉地(神通)を得、人々を済うことができるとされています。日光の峰中の諸堂(石祠)は全て金剛堂と呼ばれています。
明星天子
明星天子
明星天子は、太白星すなわち金星とされ、虚空蔵菩薩の応現であり虚空蔵求聞持法を修すとき拝される尊である。求聞持法は、古来山林の修行者たちにより修された法で、弘法大師や元三大師などの高徳も行を修められた。弘法大師の法成就の霊証は、明星とんで口に入ると伝えられている。日光には近世まで大黒山と寂光寺に求聞持道場が存在していた。
神橋手前の星の宮も本来は、明星天子を祀る杜で、上人七歳の時に降りられ、上人に三帰依と四弘誓願を授けたとされる。後年、上人はその恩徳を謝して堂宇を建立したのがこの星の宮といわれている。上人の言葉として「我この山を開くこと明星天子と深沙王の力なり」とあり、上人がこの尊を、崇めていたことが理解される。
日光の山中石祠にある天子の御姿は、天衣天冠をつけ右手に剣左手に玉を持つもので、持ちものは虚空蔵尊と同様である。明星は、日月星の三字よりなり三光天子とも称され国土安泰、智恵成弁の仏神で、伊勢の朝熊山の示現相は龍に乗り、中国式の服を着け、施無畏手、持鍵手など四臀で面は仏頭である。上人と明星天子の関係は、長い時の経過の中であいまいになっているが、求聞持法を修める多くの山林修行者たちとの関係から見なおしてみるとき、上人が、百萬遍をもって結願とするこの法を真に行じ、現証を得られたであろうことは疑いないことである。まさに明星天子は、身を静寂な山中におき、心を自由の境に遊ばせ宇宙の神秘に直入するにふさわしい本尊といえる。
深沙大王
深沙大王
深沙大王はあまり有名な天ではないが、日光山においては、大谷の急流を御開山が渡ろうとした時示現した神とされる。図像的には夜叉形で首に六つの髑髏の首飾りをつけ、両手に青と赤の蛇を持ち、腹に天女の顔がある姿が一般である。元来、天竺流砂河の神で玄奘三蔵がこの砂漠を渡る時に現れたという。玄奘三蔵は七回生まれ変わり、大般若経を中国にもたらそうとしたが、その度に深沙大王が大般若経を国外に出すことをおしみ三蔵を殺した。しかし七回も生まれ変わって法を求む心に感心し、以後大般若経の守護神となったという。
この神は、北方毘沙門天の夜の姿ともいわれ、北方泰山の神、泰山府君ともされる。また北方に位し水を支配する神とも考えられている。葛城の修験では、友ケ島に深蛇大王として祠り、修験有縁の霊神であり、悪業の障を浄め菩提の妙果を授ける天部ともいわれ、一般の天部より高位の神とも称される。
新宮権現
新宮権現
新宮権現は、日光三社(所)権現中男体山の神霊である。新宮の名は、開山勝道上人が、四本龍寺に堂を造り、その傍らに社を造り、山神を祀ったが、後に現新宮(二荒山神社)の地に移し、本堂(三仏堂)と社を造り、旧地を本宮と称し、新しい社地を宮と称したことによる。新宮権現は、本地千手観音、垂跡神は大巳貴命、応用の天部は大黒天。
勝道上人は、日光開山に当たり、中禅寺に柱の立木をもって千手観自在の尊像を刻み、中禅寺大権現と崇め、男体の神霊を鎮め祀った。別名男体大権現とも日光大権現とも称するこの権現は、男体の山頂にて上人に影向し御対面になった。そのところに影向石が現在もある。今に至るまで山頂に登拝することを日光では禅頂と称する。この男体の山は、下に中禅寺湖を擁し、その周囲をとりまく山々に諸神を祀り、日光十八王子という。中世では、一々の山々を拝する夏峰の行があったが、あまりにも苛酷のため廃絶になってしまった。
滝尾(たきのお)権現
滝尾(たきのお)権現
滝尾権現は女峰山の神霊である。この神は弘法大師の勧請による。弘法大師が日光に来錫し、今の小玉堂付近で仏眼金輪の法を修せられた時、妙見尊星出現しこの奥に大神の在すことを告げ、大師は今の滝尾の影向石の所で権現の示現を蒙り、その地に権現を祀られた。この神は三所中、威霊きつく、江戸時代東照宮の神忌に参加した者が、神をあなどり崇りを受けた事などが伝わっている。この時、崇りを除くため加持した僧が、権現より守護の約を受け、のちに求聞持法を修した時、その誓い、あやまたず権現示現したもうたという。
この神は、御本地阿弥陀如来にして西方浄刹の教主、垂跡の神は田心姫命。応用の天は大弁財天女である。滝尾の地内は、大杉があり、その根方には更に太い古木が横たわり神厳の地である。もとは、本地堂、千手堂、根本日満の社や別所などがあった。日光修験道はこの滝尾の地に因縁深く、強飯や、もろもろの修験の行は、ここで盛んに行われた。山王院の堂の礎石は、ここにあった古堂の石を用いてあり、まさにこの神との因縁はただならぬものがある。
本宮権現と日光十八王子
本宮権現と日光十八王子
本宮権現は、本地馬頭明王、垂跡、味敷高彦根命であり、別名太郎権現と称される。本宮の名称は、開山勝道上人が始めて庵を結んだ地に日光の神々を祀りその後、新宮、滝尾に社殿が建立され、もとの宮の意味で本宮と呼ばれるようになった。新宮、滝尾、本宮の三社をもって日光三社(所)大権現という。この本宮の中心の神が男体、女峰、の御子神、太郎山の神霊である。
その御姿は十六才の童神で位官束帯形で、そのかたわらに弓矢を置く。日光三山中、太郎山は一番奥にあり、日光市街からは見ることが出来ない。また、この三山ならびに中禅寺湖をめぐる山々に十八の御子(王子)が祀られている。

日光十八王子

(1)前二荒王子(本地 勢至)
(2)小二荒王子(本地 毘沙門)
(3)荒脛巾王子(本地 薬師)
(4)黒桧王子(本地 軍茶利)
(5)温泉王子(本地 如意輪)
(6)鈴岳王子(本地 妙音)
(7)小白根王子(本地 聖観音)
(8)白根王子(本地 十一面)
(9)小真子王子(本地 地蔵)
(10)大真子王子(本地 虚空蔵)
(11)専女王子(本地 大日)
(12)帝釈王子(本地 釈迦)
(13)小太郎王子(本地 準提)
(14)三笠王子(本地 龍樹)
(15)赤倉王子(本地 文殊)
(16)如見王子(本地 普賢)
(17)雪山王子(本地 不動)
(18)鉢山王子(本地 大威徳)

日光十八王子の王子という言葉は熊野の九十九王子などからきているものと思われます。日光の十八王子は古い形であろうと考えられます。その理由として白根王子や温泉王子など現在呼ばれている山名がそのまま王子名になっていることが挙げられます。また、弁財天の十五童子のように愛敬童子、官帯童子、金財童子など具体的な利益に関する名称でないこともその理由の一つといえましょう。
日光十八王子は、中禅寺湖と男体山を取り巻く山々や特別な場所の地名であり、現在行われていない夏峰のコースに配当されると思われます。このことは男体山と中禅寺湖が信仰の中心であり、この廻りを曼陀羅のように巡り拝して行くことが、日光の権現様のファミリーを巡ることになるのでしょう。
日光の古い信仰は中禅寺湖を御鏡とし、そこに写る男体山の荘厳な御姿に御山の神霊を感得したもので、中禅寺の立木観音さまはその独特の雰囲気を持っており、その御姿が観世音というより、男体大権現の御姿と考えられます。また、大権現の依代(よりしろ)と考えてもよいかと思います。明治まではこの御像は男体山の真下、今の二荒山神社の所にあり、中禅寺湖、大権現の御姿、男体山とセットになっていました。
ともあれ、このまわりを囲む山々が日光十八王子であり、日光曼陀羅と呼べるかと思います。