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日光修験道略史

日光修験道の略史を、みていくにあたり、まず開山勝道上人の御一生の事跡よりみていくことにする。
日光修験道の歴史は勝道上人に始まる。上人は天平七年(七三五年)に芳賀郡に生まれた。幼名は藤糸、父は高藤介、母は明寿と伝えられている。子供が無いことを悲しみ、出流山の岩屋の観世音に祈請した。満願の夜、母明寿の夢に白蛇来たりて、白玉の入った金の鉢を献ずるを見、それより懐妊したという。出流の奥院の観世音は、鍾乳石であり、伏せ八葉の蓮華に後向きに立つ天然の尊像である。

上人の生誕の場所は、現在の栃木県真岡市で、衍応山勝道院仏生寺の地である。上人七才の時、明星天子が降り、三帰依と四弘誓願を授けたと伝えられている。
御年二十歳の時、出流の岩屋で修行を始められ、三年後の天平宝字元年(七五七年)に夢に大剣峰(横根山)を見、それより大剣峰に至り、巴の深洞に入った。この巴の宿は二説あり、古峰原と横根山とであるが、古峰原は後世の深仙の宿で横根山中が真実の巴の宿であろう。この場合は南面して居り、冬も水が涸れず流れ、岩屋もありその下に十数米の座禅石がある。そこを更に下ると、宿跡の石積みや古い五輪塔が二基立っており、そのそばに天然の石を割って桜の古木が一本ある。この場所からは粟野の加蘇山も遠くなく平安期の三代実録に盤鑿山神に従五位下をたもうとあることもうなづける。

さて、上人はこの大剣峰で修行したもうこと三ヶ年、二十六歳の時、下山し、その翌年、天平宝字五年、下野薬師寺に入門し、鑑真大和上の高弟、如宝僧都より沙弥十戒、七十二威儀を受け、更にその翌年戒壇に上り具足戒を受け大僧となったと伝えられる。この時初めは名を厳朝と称し後、勝道と改めた。この後五ヶ年、国分寺で学問し、三十一歳の時再び大剣峰に至り、これより日光開山を発願したと伝えられる。教旻僧都や道珍法師等の十哲が、上人の下に参じ、同行うちそろい、大願を起こしたのである。
以下十哲を記す。

(1)教旻僧都 第二世座主 大千度行創始
(2)千如上人 第三世座主
(3)神善上人 第四世座主
(4)昌禅下野総講師 第五世座主
(5)尊蓮検校権講師 第六世座主
(6)道珍大僧都
(7)尊鎮上野権講師
(8)勝尊上人
(9)法輪講師
(10)仁朝別当

勝道上人の修行と日光開山
勝道上人
勝道上人たちの歩みは時の彼方にあり、はっきりと確認する事ができない。今は手がかりとなる建立修行日記等に随い見てゆく。

出流山より永野、粕尾、粟野等の山々をめぐり大剣峰に至り、三昧岩より大岩山、地蔵岳、薬師岳と修行し、薬師より東に尾根づたいに三の宿、滝ヶ原峠、鳴虫山と下り大谷川の岸に到着したように記録には記されている。

大剣峰から実際に日光(男体山)に行くには、足尾から登ってゆく道と、薬師から下って細尾峠に着き、それより登って今の茶の木平に出る道とがある。
深沙大王堂
さて、上人たちが大谷の急流を渡りかねていた時、祈りに随って応現したのが深沙大王である。手に持つ青と赤の蛇を投げると蛇橋となったが、いかんせん鱗が気持ち悪くて渡れない。その時、山菅が蛇を覆ったので渡ることができたという。後にここに祠をつくり今に至るまで深沙大王を崇めている。これが今ある朱塗りの神橋の起源とされる。

上人一行は対岸に渡り小庵を結んだが、岩より紫雲たなびくのを見て、その岩を紫雲石と名付けた。今の本宮一帯が小庵を結んだ所で、後に一寺を建立して四本龍寺と名付けた。これが日光山の起こりである。

四本龍寺は紫雲立寺の訛音かもしれない。四本龍寺についての伝説に、化人が来たりて上人に、「紫雲の立つ丘を四神嶺と称し、勝景の地で天の四宿星が四隅を守護し、青龍、朱雀、白虎、玄武の神が住む故に青赤白黒等の雲気がこのまわりを取り囲む」と語ったという。この仮庵の地が後世、仁朝尊者開基の岩本坊となり、今の唯心院の地であるという。この地には上人礼拝石や硯石等がある。
男体山登頂と勝道上人の誓願
石碑
勝道上人たちは蝸庵(小さないおり)を結び、その近辺、今の本宮の地に四本龍寺を建てた。その本尊は千手観音である。

神護景雲元年(七六七年)四月、上人一行は男体登頂を試みたが、雲霧や雷により断念し山の中腹に二十一日住し下山。天応元年(七八一年)も断念、天応二年(七八二年)三月、山麓にいたり、七日の間読経礼仏し再登頂に臨んだ。

その時に上人発願していう。「もし神々が知りたもうならば、我が心願を察したまえ。我が写しえがく所の経文や仏の尊像や山頂にもちいたり神の為に供養せん。もって神威を崇めて群生(生きとし生けるもの)の幸福をゆたかにせんことを。神々加護したまえ、毒龍あらば雲霧をおさめ山の精霊は先導し、我が願いを果 たさせよ。もし山頂に至ることなければ、我れ、菩提に至らじ」と。このように堅い発願をし、ついに頂上に至り宿願を達した。

この時初めて中禅寺湖を発見し湖岸に下り蝸庵を結び二十一日勤行をなし下山した。最初の登頂より十五年目である。この時上人は四十八歳。

延暦三年(七八四年)南湖(中禅寺湖)に登り、歌ヶ浜より小舟にて湖水を巡り、北岸に神宮寺を建て四年間住し修行した。延暦七年(七八九年)上毛野国総講師に補任せられた。

また、上人たちは日光山中のみでなく、上都賀郡山の地に華厳精舎を建立し日光(花石町)に十八王子を勧請し、庚申山を開き赤城山を開山するなど精力的に修行をし、大同二年(八○七年)の東国旱魃の時は雨を祈り験を現した。

弘仁九年(八一六年)には、中禅寺湖の社頭で三所権現の示現を得て弘仁八年(八一七年)に四本龍寺の北、離怖畏所の岩堀にて八十三歳にて入寂した。

その時の遺命には、「我が山は大乗相応の地、観音利生の処。おのおの一心に仏法を興隆し、国家を祈り、人民を利益せよ」とあり、上人が一生をかけて神祇の威光を増し、国土安穏、衆生利益を祈られたことを知ることができる。

そして上人の誓願は、後世にまで伝えられ現に法灯赫々として輪門に輝いているのである。