日光修験道
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日光修験時報「山王」

平成21年春号 より

『第九』と火生三昧 (前篇)

原澤雄健


SCHILLER 日本でベートーヴェンの「第九」交響曲が師走の風物詩になったのは、そもそもは生活の苦しい音楽家たちが年越し費用を稼ぐため、年末の演奏会を関係者の縁故で満杯にすべく出演者の多いこの曲を選んだのが背景と言われている。しかし「第九」がここまで日本人に愛されるようになった背景としては、正月を生命が生まれ変わる新春になぞらえて心身を一新しようとする日本人の感覚と「第九」が持つ祭儀的な精神とが結びついたことも考えられ、更に我々修験者にとっては「第九」の歌詞中に、生まれ変わりの儀式である火生三昧に通じる部分があるのも注目される。本論ではこうした「第九」と火生三昧の関係を見ることで、洋の東西や日独の文化的な接点を探ってゆきたいと思う。
「第九」の第四楽章で歌われる「歓喜の歌」は、ゲーテと並ぶドイツの国民的詩人シラーが1785年に書いた<An die Freude>(「歓喜に寄す」)という詩から取られている。発表直後からドイツの若者たちに流行したこの詩にベートーヴェンも二十代で傾倒し、30年以上の構想を経た1824年に「第九」交響曲として結実するのである。
「第九」は全部で四つの楽章からなり、演奏には70分以上を要する超大作である。第一楽章の冒頭では空虚五度といわれる「ラ」と「ミ」の和音に、徐々に楽器が重なり合って最初の主題に発展してゆくのだが、この部分は明らかにベートーヴェンが宇宙ないしは自然の創生を想定したものと思われる。ちなみに我々修験者が天界の調べとして吹奏する法螺貝の四つの音は基本的に「ラ」と「ミ」の倍音なので(貝の大きさにより多少ピッチのばらつきはあるが)、法螺貝の曲はどれも「第九」の冒頭と似た雰囲気を持つことになる。
第四楽章のシラーによる「歓喜の歌」の冒頭はこう歌われる。

Freude, schöner Götterfunken,/Tochter aus Elysium/
喜びよ、美しい神々の火花よ/楽園の娘よ/
Wir betreten feuertrunken./Himmlische, dein Heiligtum!
我々は火に飲み込まれながら/天国的なお前の聖なる部分に足を踏み入れる
Deine Zauber binden wieder,/Was die Mode streng geteilt;
お前の魔法は今のご時世が厳しく分け隔てたものを/再び結び合わせる
Alle Menschen werden Brüder,/ Wo dein sanfter Flügel weilt.
お前の柔らかな翼の届くところでは/全ての人間は兄弟となる (拙訳)

まず目につくのは<神>が複数であることで、ここではキリスト教の唯一神ではなく、古代ギリシャの神々がイメージされていると考えられる。そして非常に興味深いのは<我々は火に飲み込まれながら/天国的なお前の聖なる部分に足を踏み入れる>の部分で、実にこれは不動明王が観想された火の上を渡る火生三昧にそっくりである。更に意味深なのは<お前の魔法は今のご時世が厳しく分け隔てたものを/再び結び合わせる>であり、一般には分断されたドイツの再統一が解釈の前提となるが、我々修験者にとっては火生三昧が神仏分離でバラバラにされた日本人の信仰を結び合わせる祭儀と読み取ることも可能だろう。
結界の中では身分や宗教や宗派の違いは全く関係なく、誰もが同じく裸足になってお不動様の火を渡り、自分の煩悩を焼き払って生まれ変わることが出来る。信仰といえばとかく宗教や宗派の違いから民族紛争や宗教戦争の原因になるが、「第九」や火生三昧に共通するのはこうした争いとは逆の寛容や友愛の精神なのである。

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